上海より愛をこめて

 

 ~SFⅤからⅢへ~

 

 

 

星空へ

 

 

 

 気が付けば夕日が沈みかけていた。

 

 

俺たちはまだお互いの余韻が身体に残っていたせいで、肉体の境界が不明瞭のままだった。春麗と目が合えば、どうしても唇が引き合ってしまう。今の俺は豪鬼を超えていると思った。

 

 

こんな調子だった俺は、下山するタイミングを逃してしまっていたことに気が付いても遅すぎた。小屋の隅に置いてあったランタンに火をともすと、小部屋全体がオレンジ色に染まった。俺たちは身づくろいを整えた。

 

 

「春麗、ここで朝まで待とう。今からじゃ下山は無理だ。すまなかったな」

 

 

「ううん。リュウと一緒なら怖くないわ」

 

 

「まさか春麗とここで過ごすことになるなんて夢にも思わなかったけどな」

 

 

「うふふ。今日はいろいろあったけれど、あなたとスペシャルデートができて楽しかったわ。なんだか子どもの頃に行ったキャンプを思い出すわ」

 

 

 確かに様々なことがありすぎた日だったが、うれしそうに言ってくれる春麗のことをやっぱりただの女じゃないと思ってしまった。おそらく普通の女なら、俺についてくるわけがないし、この場所で禊ぎのセックスを提案するわけがない。それにここで一晩明かさなければならないことを楽しめるわけがない。俺は苦笑しつつも春麗のことを感心してしまっていた。

 

 

「今日は特別な日だ。11月11日だからな。春麗は本当に滝に呼ばれたんだと思うぜ」

 

 

「光栄だわ。わたしには大役だったけれど、あなたと儀式ができてよかったわ」

 

 

 さすがは春麗だ。素直というか、そういうことをバカにしない。春麗の前世は巫女だったというのは本当だと思った。

 

 

「腹が減っただろう? 少しだけ食料を持ってきたんだ」

 

 

 俺は旅に出るときは必ず米と保存食を携帯する癖がついていたせいで、今回も持って来ていたのだった。

 

 

 修行時代から鍋や飯ごうなどの道具なら小屋に置いてある。外に出てたき火を起こし、飯ごうに米を入れて炊く。レトルトのカレーを湯にくべて温めれば二人分は十分だ。俺にとっては何てことない作業だが、春麗は目を輝かせて見ていた。

 

 

「驚いちゃった。夜空の下でたき火を囲んでカレーをいただけるなんて。まるでキャンプファイヤーね。あらためてリュウのこと、尊敬しちゃった」

 

 

「こういうことは師匠からいちばん先に教えられたんだ。『生きる術を学ばずして格闘術など本末転倒だ』と口を酸っぱくして言われたもんだ。それと『大自然に生かされていることに感謝し、常に畏敬の念を忘れるな、人間は地球でいちばん最後に作られたのだからいちばん謙虚にならないといけないんだ』ってな」

 

 

「お師匠様は人格者だったのね」

 

 

「本当は山菜を取ってきて、川で魚を捕まえてこられたらもっとよかったんだけどな」

 

 

「本格的なサバイバル生活ね。都会暮らしのわたしにはすべてがはじめての体験だわ」

 

 

「俺はやっと都会の暮らしに慣れてきたところだ。サバイバル生活から脱出したらもう戻れないよ。山を下りたらうまいものをたらふく食べに行こうな」

 

 

俺たちは笑った。

 

 

「春麗、空を見てみろ、ここは星がきれいなんだ」

 

 

「うわあ、きれい。こんなにきれいに星が見えるなんて・・・。上海の夜空と大違いだわ」

 

 

 ここから見える夜空は格別だ。電気のないこの地一帯は文明から遠ざけられているせいで、古代の日本にタイプスリップしたような感覚に陥る。俺はいつもここで空を見上げては宇宙に思いを馳せるのだった。

 

 

「星の帯が見える。天の川だわ」

 

 

「七夕伝説だな。もともとは中国の物語だったな」

 

 

「織女と牽牛物語ね。牽牛は人間で、織女は天女だった。牽牛は織女に恋をして、天の羽衣を隠して織女を天に帰せなくしたの。それで牽牛と織女は夫婦になった。それを天帝が怒って二人を引き裂いたのよ」

 

 

「それは日本で言う天女伝説だな。七夕伝説と天女伝説はもともと同じだったんだな。知らなかったよ

 

 

「天帝は二人を引き裂いたけれど、織女は幸せだったと思うわ」

 

 

「相手は人間だったのに?」

 

 

「ええ。きっと牽牛は織女のために一生懸命尽くしたんだと思う。だって、牽牛は天女は永遠に天女であってほしいと願っていたはずだから。それにふたりの間には子どももいたのよ」

 

 

「中国の伝説ではそうなのか?」

 

 

「ええ。だけど天帝は孫の織女を天に連れ戻してしまったの。それで牽牛は必ず織女を取り戻すと心に誓ったのだけれど、人間が天に行けるはずもない。それで飼っていた牛が自分を殺してその革をまとえば空を飛べる。だから行っておいでと牛に諭されるの」

 

 

「それで?」

 

 

「子どもを連れて天にたどり着いた牽牛は何度も何度も織女に会うために奮闘するの。そのたびに天帝は織女を隠してしまうの」

 

 

「うん」

 

 

「でもね、ふたりはやっと家族の再会を果たしたのだけれど、身分の違いから天帝の后が邪魔をして、ふたりの間に銀河の溝を引いたの。それでふたりは天の川の両岸にいて七月七日しか会えなくなったのよ」

 

 

「それは耐えられないな。俺は牽牛がいい奴に思えてくる」

 

 

「どうして?」

 

 

「俺みたいな奴だから」

 

 

「うふふっ。そんな人だから織女は牽牛を愛したんだわ」

 

 

春麗は豊かな胸を俺の腕に押し当てて抱きついてきた。慎重なようでときどき大胆な行動に驚かされる。不意に甘えてくる春麗がたまらなくかわいい。俺は春麗を背後から抱きしめた。

 

 

「天であろうが地獄の果てだろうが、奴はどこまでも探しに行ったと思うな。天女ともう一度一緒になれるのなら」

 

 

「リュウって、ロマンチストだものね。男の人の夢って壮大なのよ」

 

 

「夢が壮大であればあるほど熱が入るものなんだ。男にロマンがなけりゃ、死んでいるのと同じだ」

 

 

「そういうものなのね・・・女は目の前の幸せを追うものだけど」

 

 

春麗はそう言ったが俺は思った。女の目の前の幸せを実現するために、男は遠くへ狩りに出かけて獲物を捕ってくるのだと。

 

 

「ねえ、今度はあなたが何か話して」

 

 

 そうだな、と思いを巡らせてから俺は話をしはじめた。

 

 

「中国と言えば、熊野の地には徐福伝説があるんだ」

 

 

「徐福って、不老不死の薬を探して旅していた徐福のこと?」

 

 

「そうだ。中国からこの地に入って日本に来ていたんだ。熊野灘からはいろんな渡来人が上陸している。そういえば春麗もそうだな」

 

 

「本当ね。わたしのミッションはこの地であなたとひとつになることだったなんて。それでこの土地の結界が解除されたりなんかして」

 

 

 春麗は笑っていたが、俺はもしかしたら本当にこの地に掛けられた封印が解かれたかもしれないと思った。血塗られたこの土地の因縁は二千年昔にさかのぼる。この地一帯は霊山だけあって強力な結界が掛けられているはずなのだ。少なくとも、俺自身に課せられていた結界と宿業は春麗によって解き放たれたのはまちがいない。俺はもう二度と殺意の波動を発動することはないだろう。

 

 

小屋に戻ると納戸から寝袋を二つ持ってきて敷いた。

 

 

「悪いが今晩はこれで辛抱してくれるか?」

 

 

「わたしは大丈夫よ。ここは必要なものは何でもそろっているのね。ありがたいわ」

 

 

春麗は早々と寝袋に入り込んで俺の隣に横たわった。まるでキャンプに来た子どものように。

 

 

虫の声が鳴り響いている。ランタンを消してしばらくすると、月明りで目が慣れてきた。

 

 

「今日のリュウ、とっても素敵だった」

 

 

 春麗は俺を見つめている。春麗の目は俺の心をとらえて離さない。俺は春麗の頬に触れ、唇を吸った。今日はあんなに激しく春麗を抱いたのに、また抱きたくてたまらない。どれだけ春麗を愛しても愛を伝えたくても、言葉で伝えきれないほど春麗を愛してしまっていた。

 

 

「あの温泉で愛し合えてとてもロマンチックだった。またあなたのことを好きになっちゃった。今日のこと、一生忘れないわ」

 

 

 春麗は俺の手に指を絡めてささやくように言った。

 

 

「したい?」

 

 

「うん、したい」

 

 

 春麗はクスッと笑った。

 

 

「でも、今はこうしていられるだけでいい」

 

 

 俺は春麗を抱き枕のように抱きしめて言った。

 

 

「春麗とくっついていられるだけで・・・」

 

 

「うん・・・」

 

 

 このまま朝が来なければいい。俺は今まで春麗にこんな思いをさせていたのかとハッとした。今回は春麗がはじめて俺を訪ねて来てくれた。明日春麗は上海に帰ってしまう。また離れなければならない時が来る。今夜は春麗をしっかり抱きしめていようと思った。