第一部
いつか・・・。
~SFⅢエンディングより~
「真の格闘家とは?」
「なんのために強くなるのか?」
「勝利の先に何が見えるのか?」
若い頃はこんな疑問が浮かんだら、一日中頭から離れなかった・・・。
あるがままを受け入れればいいのか、それとも苦悩の末、見つけ出すのか。
・・・・・・。
「では聞くが、『あるがまま』とはどういうことじゃ?」
どこからともなく老人の声が聞こえてきた。ここには誰もいないはずだ。振り返ると、細身ではあるが筋肉質の体に袈裟のような布きれをまとった、赤い三白眼の老人がいた。俺が姿を認めると、口元からゾロリと隙間だらけの歯をのぞかせた。
「普通の人間はよく『あるがまま』と申すがのう、欲望まみれ自我まみれの『あるがまま』と勝手都合よく解釈してぬかしよるわい。そのことにすら気が付いておらん」
老人はあごをさすりながら言った。
俺はすぐさま何か重大なことが脳天に落ちてきたようなひらめきがあった。
「ひょひょひょひょ。おぬしは見込みがあるわい。真に『あるがまま』になったとき、再びここに来るがよい。わしと勝負してやろう」
老人はその言葉を残してどこかに消え去ってしまった。周りを見回しても、木々だけがそびえたっている以外何もない。上空には枝葉と空。下方には落ち葉のじゅうたんだけだ。先ほどの老人が普通の人間ではないことだけは確かなようだ。その証拠に老人の「欲望まみれ自我まみれの『あるがまま』」という言葉がいつまでも俺の中でこだましていた。
林を抜けると切り立った崖に出た。そこに立って眼下を覗くと山々の谷底が大口を開けている。眼前には雲一つない青空が広がっていた。空と山。大自然を前にしてみると、人間のこだわりがとるに足らないことに思えてきた。このとき自我をすべて捨ててみたいと思った。
脳天にひらめいた瞬間に「強くありたい」と願うことすら、自我だったと気づいてしまっていた。その思いを風にまかせて手放してみた。
なぜか道着さえ脱ぎ捨てたくなった。赤いハチマキとともに。こんな思いは今まで一度もなかった。ザックの中に詰め込んであったTシャツとジーンズに着替え、俺はただの男となった。そのとき、浮かんだのは・・・。
「会いに行くか」
ただの男は、喜びに満ちあふれ、高ぶる心を解放することさえいとわなかった。
上海の片隅にある古い武術道場へと向かうと、子供たちに功夫を指導している春麗の姿があった。蒼いチャイナドレスに白いシニヨンに髪をまとめたいつもの春麗。だが、いつもの春麗ではなかった。刑事だった頃の緊迫感が抜け、笑顔がほころんでいる。女性らしい優しさの中に強さを秘めている春麗がまぶしく見えた。俺の心臓は勝手に高鳴りだした。心から春麗が好きだと思った。俺は彼女に悟られないよう、稽古が終わるのを待っていた。シャドルー壊滅作戦の後に結ばれた夜、心の底から味わった感動に再び胸を奮わせながら。
子供たちが道場から出てきた。稽古が終わったようだ。俺は依然腕を組んだままそこに立っていた。春麗には気づかれていないはず、だった。
「来てくれたのね」
振り向くと春麗がいた。心臓の鼓動が激しく胸打った。心の準備もできていないうちに春麗が胸に飛び込んできた。
「うれしい・・・!」
俺は春麗を抱きしめるとキスをした。唇が離せなかった。
「会いたかったよ、あれからずっと」
「わたしも。毎日あなたのことばかり思ってた」
俺と春麗は、まるで恋人同士のようだった。この間柄が思いのほか新鮮で心地よかった。
「でも、あなたの格好、いつもと違うわ」
「今はただの男ってわけさ」
「何かあったの?」
「ああ。格闘家をやめてみた。君の前だけは」
春麗は俺の目をじっと見た。頬を赤らめて。
「わたしも・・・。普通の女の子に、戻っていい?」
「女の子!?」
春麗の言葉に、一瞬戸惑った。
「何か文句ある?」
「いや・・・ハハッ」
「うふふっ」
俺たちは笑いあった。お互いの「ごく普通」にこんなにめずらしがっていることが、おかしかった。
「着替えてくるわ。上がって待ってて」
春麗は道場に俺を招き入れると、駆け足で二階へあがって行った。
道場の上座に一礼、正座して目を閉じてみる。普段着で道場にいる自分が別人格の自分に思えて、今までの自分が客観的に見えてくる不思議さを感じていた。
あのときの俺は、孤独でひとりよがりの自分しか見えていない、ただ強くありたいと渇望しているちっぽけな男に見えた。それが自我だと気づかないままに、強者を求めさすらう男。
今の俺は、自我を見つめているただの男。確かなのは、春麗を抱いたとき、すでに自分が強くあると知ったということだった。求めることを手放せば、自分にすでにあったことに、やっと気づけた。こんな簡単なことに、どうして今まで気が付かなかったのだろう。それは後生大事にしていた自我を手放すことを恐れていたからだ。俺は格闘家であることをやめてみて、向こう側から自分を見ることができた。格闘家をやめても、俺が失われたわけではない。むしろ、本当の自分が見えてきた。この逆説にやっと気づいた今、「あるがまま」ということがどういうことなのかがわかってきたような気がした。
「あなたはやっぱり格闘家ね」
俺が黙想を続けている間に、春麗が横に座っていた。つややかな黒髪は腰まで下ろし、淡いピンクのワンピース姿に身を包んだ春麗は、清楚な普通の女性だった。あまりの変身ぶりに俺の心は慌てふためいた。
「どんなリュウも素敵よ。今は格闘家でないリュウにとても興味があるけれど」
「俺も君が普通のお嬢さんじゃ、試合を申し込む気になれないよ」
「じゃあ、何しにこちらへ?」
刑事だった頃の隙のない女格闘家・春麗とは思えない屈託のない笑顔をかしげた。
「デートを申し込みに」
「フフッ、喜んで」
道場に笑いが響き渡った。
「おっと、君のお父さんに叱られてしまうな」
上座に掲げられた春麗の父親の写真を仰ぎ見た。中国有数の拳法の達人だったと聞く。格闘家として尊敬に値する人物だったに違いない。
「父さんは、わたしに普通の女の子になって欲しかったんだと思うの。こんな危ない世界に踏み込んだ娘を、親不孝者って思っていたはずなのよ」
春麗は父上の写真を見つめて言った。
「今まで心配かけてごめんなさい。でも、この人がわたしを守ってくれたの。大事なことも教えてくれた。だから安心してください」
そう言うと、春麗は俺の顔を見上げた。
「父さんはきっと喜んでくれているわ。あなたのことを」
「・・・いや、俺はまだまだ君のお父さんの足元にも及ばないよ」
急に自分の未熟さを痛切した俺は、まだ正面を切って春麗の父上にお許しを願う資格がないことを自覚していた。
「だから、あらためてご挨拶申し上げることにする」
「あなたらしいわね・・・」
いつものように、春麗は呆れたような表情で言った。
「夕食は手料理をごちそうするわ。買い物に付き合ってくれる?」
道場を出ると、俺たちはまったく普通のどこにでもいる男女と同様に、ごく当たり前の買い物にいそしんだ。街で肩を並べて歩くことが新鮮であるだけでなく、春麗と腕を組んで歩いていることが信じられなかった。
春麗が俺のために手料理を作ってくれるなど思ってもみないことだった。二人して楽しく夕食を共にしていることさえ夢のようだった。世間一般の恋人同士はこんな風に過ごしているのかと思うと、今まで非現実的な世界に生きてきたお互いが滑稽に思えた。
春麗に会ってから格闘のことを考えたことなど一度もなかったことに、俺自身がいちばん驚いていた。俺はいままでと全く違う次元にいる。その次元はおそらくすでにあったのだろうが、自ら上がらなければ決してたどり着くことはないことを思い知った。そこにあったのは喜びと安らぎ、そして愛だった。
今日一日が心躍る出来事の連続で、こんなに楽しく春麗と過ごせたことが心底うれしかった。格闘家としてでない春麗と向き合うことで、家庭的な彼女の一面を知ることもできた。俺はますます春麗の魅力に惹かれていったのだった。
食後に春麗が淹れてくれたジャスミンティーを飲みながら、上海に来る前に出会った奇妙な老人の話題になった。
「欲望まみれ自我まみれの『あるがまま』・・・」
春麗は言葉を反芻していた。
「きっとそのおじいさんは仙人だと思うわ。中国では『あるがまま』のことを『恬淡虚無(てんたんきょむ)』といって、タオの修行者はその境地を目指しているのよ」
「仙人か・・・。俺が真に『あるがまま』になったとき、勝負してやると言っていた」
「すごいわね。仙人にはなかなか会えないわよ」
「春麗・・・君を抱きたいと思うことも欲望だよな?」
「リュウ・・・」
「それが欲望なら、俺はきっと一生『あるがまま』にはなれないよ」
俺は頬を赤らめた春麗をじっと見た。すでに仙人のことなどどうでもよかった。
「磁石は自然に引き合うわ。わたしたちもそれと同じ。欲望と自我は自然に逆らうことだと思うの」
「なるほど。君の言うとおりだ」
俺たちは自然に身を任せ、夜の帳を泳いで旅立った。男と女の生命の根源を探る旅へと――。
まだ夜が明けないうちに目が覚めた。隣で春麗が寝息を立てている。俺は春麗を起こさないように身支度を整え、道場へ降りた。
早朝の黙想は長年の習慣だ。これだけはただの男となった今朝でもやらずにはいられない。上座に一礼し、春麗の父上を見上げた。男同士の無言の対話というものがある。そこには勝ち負けも駆け引きもない、正真正銘の自分自身との対面だった。
しばらくすると春麗の足音が聞こえてきた。春麗は何も言わずに黙っていた。俺は上座に一礼し、立ち上がって振り返った。
「春麗、君に言っておきたいことがある」
「・・・」
春麗は俺の目を見つめている。
「今まで俺は、自分だけのために十分生きた。これからは闘いで見出した『答え』を軸に生きていこうと思う。それが本当の自分の生きる道だと分かったんだ。真の格闘家はその先に見えてくるんだと思う。この拳があの仙人に通用するかどうか、やってみるよ」
俺は右拳を突き出した。春麗はそれを受け止めた。
「ええ。きっとうまくいくわ。あなたは生まれ変わったもの」
俺は春麗の目を見つめてうなずいた。
「いつか・・・。いつか、必ずおまえをもらいに行く。それまで待っててくれるか?」
春麗は目を丸くして俺を見つめた。瞬く間に涙があふれ大粒の涙がこぼれ落ちると、俺の胸に飛び込んで背中に腕を回した。俺は春麗を愛でそっと包み込んだ。
「・・・ウン。待ってる・・・」
格闘家として自縄自縛でいた頃の呪縛が解けた今、「あるがまま」でなければこのことを決して春麗に言えなかっただろう。俺には迷いもためらいも恐れも先の不安もない。不可能なことは何ひとつない。このすがすがしく澄み切った意識が本当の自分だった。
俺は決心を新たに、春麗との約束を胸に刻みつけて再び赤いハチマキを締めたのだった。