第五部
修羅の世界の先駆者
~SFⅢエンディングより~
あれから俺は、より強さを求め技に磨きをかけながら、過酷なトレーニングを積んできた。あの日本人格闘家・リュウに勝つために。
はじめて衝撃を味わったのはおそらく十年近く前だ。リュウという名が胸に深く刻みつけられ、世界へ目を向けたのがそのころだ。
あの男と俺は何が違うのか。経験なのか、テクニックなのか。それとももっと別のところにあるのか。俺はそのことを問い続け、その答えをあの男と闘うことで確かめてきた。
あの男はかつて定住せずに世界を流浪していたらしい。己よりも強き者と闘うために。格闘家なら、誰しも通過するはずの「世界に自分の力が通用するのか確かめたい」という衝動は、もしかしたら格闘家の原点といえるのかもしれない。
この十年間で、あの男に何度闘いを挑んだことだろう。ほかのファイターは倒せても、あの男にだけはどうしても勝てない。俺は自分が確実にレベルアップしていることを自覚している一方で、乗り越えられない何かをいまだに引きずっていたのだった。
最後の挑戦状をあの男に送ったのが一か月前。それから二週間ほど過ぎてから、返事が来た。
――貴殿の挑戦状を拝読した。日本で貴殿の拳を受け止めよう――
そう記された一文の下に、指定の場所と日時が記されたはがきが俺の元に届いた。
約束の日が今日だ。
アメリカンサイズが当たり前の俺からすれば、日本という国はすべてがミニチュアサイズだ。小さな国でありながら、あらゆるものが凝縮されている。
日本に降り立ったのは建築物が乱立する中心地。約束の場所は鉄道やバスを乗り継ぐたびに中心地から遠ざかっていった。たどり着いた先は風光明美な自然の姿が残されたままの山間部だった。
男はそこにいるはずだ。はやる気持ちを抑えつつ、滝つぼが目印とされた地図を片手にたどり着いた。
「よく来たな、アレク」
声が聞こえた方に振り向くと、白い道着に赤いハチマキ姿の男がいた。
「ここは若いころから修行場所として昔から世話になっているところだ。剛拳師匠の弟子時代はよく滝に打たれに来たものだった」
男は、まるで客人を招き入れるかのように、俺を川のそばに導いた。
今日のために士気を高め、闘志を燃やしてきた俺とは裏腹に、男はまったく試合に挑む様子はない。ましてやここは大自然。都会の喧騒もなく、ストリートファイトをはやし立てるやじ馬もいない。大自然を前にしてみると、闘争本能を維持することに集中力を要する。気を抜くと、すっかり男のペースに呑まれてしまいかねない。
「さあ、はじめるとするか」
男は赤いグローブをはめて構えた。
俺も腰を据えて構えた。覚悟はすでにできている。
至近距離なら俺の方が圧倒的に有利なはずだ。なぜなら俺の方がはるかに身体能力は高いからだ。リーチは俺の方が長いし、体重もパワーもある。なによりも俺の方が十歳は若いのだから。
ただ、男は波動拳を駆使する離れ業を持っている。これを攻略するために、俺は日夜技の開発にエネルギーを注ぎ、ついに波動拳を打ち破る技が完成したのだ。俺には波動拳が通用しないことを、ここで証明してやる!
「うむ、いい目をしている。技のすべてをぶつけに来い! 全力でだ!」
「俺は確かめたいんだ。自分の技が、あんたに通用するのかを!」
今日こそこの男に引導を渡してやる! 俺は目くるめく攻撃を男に放った。しかし、すべての攻撃を男は防御した。
「さあ、どうした! まだだ!」
その言葉に俺は闘牛のごとく男に牙を剥いた。
突進し、右拳で円弧を描いて渾身の一撃を振りかざした。
「!!」
俺の右拳は男の両手のひらで受けとめられ、男の身体は体勢を維持したまま後退し、数秒間静止した。
「ウッ!!」
その瞬間、俺は仙骨から力が抜け、脚から崩れて勢いよく転倒してしまった。攻撃されたわけではないのになぜ俺は倒れてしまったのか。俺は地面に仰向けになり、右拳は男の手のひらに受けとめられたまま、身体が動かなくなってしまっていた。
不思議だった。この状況でなぜか焦りも闘争心も掻き立てられなかった。男の手のひらに受け止められた俺の拳を通じて、俺という全存在を包み込んでくれる、絶対的な安心感に身をゆだねていた。闘志はすっかり消え去り、俺はこの男の手のひらから離れたくないとさえ感じていた。こんな感覚は、生まれてはじめてだった。
ゆうに十秒は経過していただろう。やがて男は俺の手をつかみ、上体を引っぱり起こした。
俺はその場で座り込んだまま茫然としていた。起きた現象をどう判断すればよいのかわからなかったが、すでに勝負は終わっていたことだけはわかった。
「・・・俺の負け・・・か・・・」
またもや、俺はこの男に勝てなかった・・・。いつもならばすぐにリベンジしてやると意気込んだものだが、今回は明らかに何かが違っていた。
「いや、おまえさんは負けなかった」
俺は男を見上げた。
「しかし・・・!」
「それに、俺は勝ったわけではない」
「・・・」
この状況から、どう身の処し方を切り替えればよいのかわからなかった。再度挑戦するにも、俺にはすでに戦意はない。今回は、俺の技が一度も男にダメージを与えることなく終わってしまった。俺の胸中をよそに、男はその場から離れ、腰を掛けられる岩場まで歩いて行った。
「こっちだ」
そう言って、俺に水の入ったボトルを投げ渡した。思わず受け取る。
(フウ、まったく調子が狂うぜ・・・)
すっかり俺の闘争心はこの男に飼いならされてしまった。あの、不思議な感覚をどう受け止めたらよいのか、皆目見当がつかない。男は、俺は負けなかったし、男は勝ったわけではないと言った。
俺は戸惑いながらも、言われるままに男の隣に腰かけた。滝のミストシャワーを浴びながら、川の流れを見つめつつ、鳥の鳴き声と木々のざわめきのこだまがBGMとなっていた。
男は、ボトルの水を飲んで一息ついている俺に、何かを差し出した。
「腹が減ってるだろう? うまいぞ」
白い米の塊に黒い紙(?)で巻いてある。ライスボールというやつだ。四角い容器にぎっしり詰まっている。ためらいながらも、俺はひとつ手に取った。
「それはおにぎりというものだ。うちの嫁さんの手づくりだ」
男はうまそうに米をほおばっている。それを見た俺は腹の虫が鳴きだした。俺も勢いよく米にかぶりついた。
「ンッ!?」
俺は急に眼を白黒させてむせ返った。酸っぱいものが中に入っていたのか、一気に唾液が出た。見るとライスボールの中には、赤い球が仕込んであった。
「はっはっ、そいつは梅干しだ。種に気を付けろよ。白い米の中心には赤い梅干しというのがおにぎりの定番だ。日本に来たら、一度は食ってみるもんだ」
男は笑いながら言った。手に持っていた米をひとしきり腹に収めてから、男は切り出した。
「おまえさんを見ていると、昔の自分を思い出す。あのときはただ、自分の拳で答えを模索するしか手段がなかった。なんせ、格闘家として生きる以外に方法がなかったからな」
男は若い頃を思い出して、懐かしそうに言った。
「あんなに強いのに、どうして今は公式戦に出ないんだ?」
「もともと華々しい場が苦手でな。ああいうところは、若いファイターの活躍の場であればいい。誰しも自分に合った場をもてばいい」
「場?」
「そうだ。俺はもうリングを必要としなくなっただけだ。一般的にみれば、リングに立たなければ引退したと思うだろう。だが俺は格闘家をやめたわけじゃない」
この男の素性を知らない者は、数年前に引退した格闘家として認識していることを俺は知っている。しかし、一度でもこの男と拳を交えたことのあるファイターなら、そんな噂を真に受けるはずはなかった。
「あんたほどの強さなら、堂々とリングに立てばいい! それなのに、なぜ?」
「俺の目指すところは、リングの上ではないからだ。必要以上の富は、俺はいらない」
「世界中のファイターが、あんたとの勝負を求めてる。だったら、リングの上で受けて立てばいい」
俺は、いままで心の中にため込んでいたわだかまりをいっぺんに噴出させたかのように、男に突っかかっていた。だが、男はあっけらかんとしていた。
「俺はいつだって来るもの拒まずだぜ? 若いやつらは皆、年老いたファイター相手に『俺が引導を渡してやる』と意気込んでいておもしろい。俺は後進たちの目の上のコブみたいなもんだからな」
男は俺の目を見て、そうだろう? と言わんばかりに笑っていた。
公式戦で拳を交わすチャンスがなくなったということは、非公式で闘いを挑まざるを得ない。確かに男の言う通り、俺の挑戦を一度だって受けなかったことはない。
俺みたいな野心を持った格闘家は世界中にゴマンといる。非公式試合を挑む者は俺のほかにもたくさんいるはずなのだ。トムもそう言っていた。
この男、いったい年間に何試合の非公式試合をこなしているのだろうか。そしてこの余裕ときたら何なのだろう。
もしかしたら、格闘家の登竜門はリングの上ではなく、この男の存在そのものなのかもしれない。
結局俺は、でかい弁当箱をすっかり平らげてしまったのだった。
岩場を引き上げると、男は吊り橋を渡った先にある小さな建物に俺を案内した。
「ここは温泉場なんだ。風呂につかって長旅の疲れを癒すといい」
通されたのは、大衆浴場。平日の昼間だったためか、他に客はいなかった。
男は道着を脱ぎ裸になった。俺よりもずっと年長ではあるが、鍛え上げられた肉体からは年齢をまったく感じさせない。それどころか、若者に引けを取らない立派な身体つきをしている。
俺の方がずっと上背もあるし、一回り以上身体が大きい。しかしこの男の場合、体の大きさ、筋力やパワーが問題ではないことは明確なのだ。ならばその差はどこにあるというのだろう。
「風呂場にも、ルールがあるんだ」
男のアドバイスどおり、俺は身体を洗い、風呂に浸かった。
「日本では昔から裸の付き合いといって、男同士の交流の場が風呂だったんだ。おまえさんは初めてだろう」
そう言って、タオルを頭の上に置いて目を閉じていた。
「これが日本流の基本スタイルなんだ」
なぜに頭の上にタオルを乗せるのか不明だったが、俺も真似てみた。
互いにしばらく無言で湯に身をゆだねていた。末梢血管まで湯の熱が染み渡ったと思ったころ、男は俺のすぐそばに近づいてきた。
「おまえさんにひとつ、身をもって体験してもらうとするか」
「!?」
俺は突然男に頭を押さえつけられ、湯の中に顔を突っ込まれたのだ。抗う俺に男は容赦しなかった。
「ぶはっ!!」
死ぬ! と思った瞬間、男の手が離れた。俺は呼吸を荒げながら、さっき起きた出来事をどう整理すればよいのか、思考が混乱していた。
「湯の中に顔をつけられて、おまえさんはどう思った?」
「死ぬと思った」
「そのとき、何が欲しいと思った?」
「空気が欲しい。息が吸いたいと思った」
「そう思った意識が、おまえさんの本体だ。肉体が本体ではないことが、これでわかっただろう?」
確かにそうだ。しかしこの男、いきなり俺の意表を突く行動で何を考えているのか俺にはさっぱりわからなかった。
「目に見えない空気がなくては生きられない。見えるものを形作っているのが目に見えないエネルギーだ。このことがわからなければ、おまえさんは一生、俺に勝つことは不可能だ。身体でわかるには水攻めがいちばん手っ取り早い。手荒な真似をして悪かった」
俺はしばし茫然としたままだった。
「肉体レベルのぶつかり合いでは、俺はおまえさんに勝てないだろう。しかし、次元を上げれば肉体レベルなど取るに越したことはない」
「じゃあ、あんたの波動拳・・・あれはいったい何なんだ?」
ずっと疑問に思っていたことが、言葉になっていた。
俺はこれまでの勝負で波動拳の威力がどれほどのものかを、実際に自分の身体で確かめてきた。しかしその原理が何なのか、いまだにわからなかったのだった。
「ひとことで言えば、氣を操るというものだ。この宇宙は氣という目に見えない生命エネルギーで満ちあふれている。この肉体を形づくる物質も、おまえさんが死にかけたときにいちばん欲しかった空気も原子でできている。その原子に生命エネルギーが吹き込まれてはじめて分子、つまり物質になる。目の前に現れている森羅万象はすべて目に見えない原子と生命エネルギーが材料なんだ」
いつもの俺ならばこういう話はスルーしてしまうはずなのに、この男が言うことには聞き耳が立った。
「波動拳は宇宙にあまねく存在する生命エネルギーを手のひらに束ねた粒子、つまりは波動の集合体だ。光を物質化し、物理的に作用することができる技。俺もその仕組みを知ったのは、ずいぶん後になってからだけどな」
俺には仕組みはよくわからないが、現実に物質化できるのだからそうなのだろう。しかし、ここしばらく波動拳にお目にかかったことはなかった。さっきの勝負でもそうだった。俺は波動拳を破る必殺技をあみ出して待っていたというのに。
「でも、なぜあんたは波動拳を打たなくなったんだ?」
「必要なくなったからだ」
「あんなにすごい技だというのに?」
「俺は師匠の教えが何なのかわからないまま波動拳を習得したが、今になってみれば師匠の気持ちも弟子の気持ちもわかる。もちろん、おまえさんの気持ちもな」
この男には俺のことが何もかもお見通しだというのか・・・?
「子どもはおもちゃを欲しがるもんだ。それは未知のものを体験したいからだ。体験して味わってしまえば、もう必要ではなくなる。そういうもんだ」
「波動拳がおもちゃだというのか!? あれほどの技を・・・?」
俺は目の前で男の必殺技を見たいのだ。どうやってあの光の玉を発することができるのか、あるいは、どういう原理で天を衝く反重力のエネルギーを生み出せるのかを。そしてそれらの技を身体で受け止め、攻略してみたい。いっぱしのファイターなら、誰しも思うことだ。
おそらく男はそんなことは百も承知しているにちがいない。しかし波動拳を使わなくなったということは、必殺技が最高の技ではないと考えているからなのか・・・?
普通のファイターなら、必殺技をあみ出すことにすべてをかけている。それを駆使するテクニックをひたすら磨き上げるものだ。
男はそれさえも、通過してしまったというのか。必殺技を超えたというのなら、俺の拳に伝わった、あの奇妙な感覚は何だったのだろうか。
「俺は一度もあんたに技が決まらなかった・・・。それどころか、拳を手のひらで受け止められたまま、動けなくなってしまっていた。あれは何が起きたのかいまだにわからない・・・」
俺は率直に言った。
「あのとき、確かに俺の戦意は消失し、なぜかあんたの手のひらから離れられずにいた。その間、肉体の重量感はなくなっていて、温かくやさしさに包まれたような感覚に満たされていた」
男は俺を横目に、うれしそうに言った。
「俺とおまえさんの境界がなくなっていたことがわかったか?」
「そういえば、そうだった・・・」
「俺たちは、勝負を超えていたんだ」
「!?」
「勝負を超えてしまえば勝ちも負けもない。闘いはその時点で消える」
男は平然と言った。必殺技を超えるどころか、勝負を超えていたとは・・・! 俺はすぐさま突っかかった。
「何で・・・何であんたは勝利を喜ばないんだ? 誰よりも強いのに・・・! 格闘家なら誰でも勝利がすべてだ。それなのに、勝利をなぜ誇らない? 俺にはわからない」
そうなのだ。この男の考えていることがわからないのが、いちばん厄介なのだ。この男のやることなすこと、すべてが俺には理解を超えている。それが何なのかをわかりたい一方で、それを受け入れることは、俺自身が受け入れられない。そんなジレンマを抱えているファイターは、俺だけではないはずだ。
最強の格闘家は頂点に堂々と君臨していればいい。格闘王は格下を相手に必殺技をあますことなく駆使すればいい。格闘王とはそういう存在なのだ。強い者が勝つ。その仕組みから外れることは、仕組みを崩すことになる。この男はただ格闘王でありさえすればいいのだ。しかしこの男の行動は、ことごとく俺たちファイターを混乱させるのだ。
「俺はな、若いころから何のために闘うのか、その答えをずっと探してきた。勝利を得ても、心からの喜びはほかにあると感じてきた。若いころはそれがなぜなのかわからなかった。今になってそれがやっとわかったのさ」
「じゃあ、何のために闘ってきたんだ・・・?」
「それは、闘いの世界を終わらせる方法を知るために闘ってきたということだ」
「闘いの世界を終わらせる・・・!?」
「この世界はすべて競争原理で成り立っている。頂点の勝者が敗者の支配権を掌握し、世界の仕組みを構築している。しかし勝者は敗者によって支えられていることを勝者は知らない。この対立と依存関係を解消しない限り、この闘争の世界は維持し続けるだろう」
この男は、世界の強豪を相手に闘ってきたように見えて、本当は、世界の仕組みを相手に闘ってきたというのか・・・?
「リングは世界の構造の縮図だ。そこに立てば競争原理がじかに働く。ファイターは人類の縮図を演じているんだ。この構造は世界の隅々だけでなく、個人の内面まで果てしなく及んでいる。闘いを終わらせない限り、人類の苦しみは連鎖し続ける。もう、この世界を終わらせなければならない。俺はそれを拳で体現しているにすぎない」
「闘いの世界を終わらせるなんて・・・。誰だって、闘うために格闘家をやっているんだ! ・・・あんたは格闘家を超えている・・・」
なんて男だ! 格闘家の領分をはるかに超えたところを見ていたとは・・・。想像以上の器だ・・・。俺はいつの間にか興奮していた。
「闘争の連鎖を断ち切るために、革命を起こす必要はない。世界を変える唯一の方法は、自分を知り、自ら変わることだ。それを、肉体を使って表現する。方法は千差万別あっていい。己が求めし手段に従うだけでいい。俺はそれを格闘家としてやっているだけだ。修羅場で生きる格闘家が先頭を切ってこれを体現できれば、この世界を変える方法を示すことができるだろう」
男は平然として言った。この男には慢心も功名心も、富に対する欲もない。ただ、私利私欲を離れて世界を相手に自らの役割を淡々と実行しているだけだということなのか・・・?
この男の底知れぬ強さの根源が、どこから来ているのか俺にはわからない。ただ、自らの力量や才覚を誇らず欲を求めず、謙虚に邁進しつづけている姿は他に類を見ない。これがサムライの日本魂というものなのか・・・。
「俺とともに勝負を超えた格闘家たちに伝えたい。神人合一の境地を体験したことを深めてくれと。そしてそれを自分なりに伝えていってほしいと。おまえさんなら、それができる」
俺はこの男の目の奥に光る確かな意志を見た。その意志はもはや個人的レベルを超えて、天命だったのだと俺は悟った。
「あんたみたいな高尚な格闘家はほかにいない。誰しも、勝利のためだけに闘っている奴ばかりだ。誰よりも強くなって、富を得たいと思っている。俺だって、そうだ・・・」
「俺は決して高尚な人間なんかではない。格闘家とは、修羅の世界で生きる者。最も熾烈な人間界で勝利を奪い合う者。ただ、俺はこの修羅の世界で天地神明の道に従い、これまで奪ってきた以上に、与えることを実践しているだけだ」
(・・・この男は本物のサムライだ・・・。真の格闘家だ・・・)
この男が見ていたのは、対戦相手ではなかった。勝負の場で世界の強豪を相手にしながら、その背後に壮大な意図が込められていたのだった。
俺はこの男の本懐に胸を打たれつつも、自分の立ち位置とのあまりの格差に、うなだれるしかなかった。
それでも俺は、この拳で勝利と富を勝ち取りたい。世界で己の強さを証明したい。・・・俺にはまだ、覚悟は決められなかった。
ただ、わかったことがある。男の手のひらから通じて感じた、あの至福の安らぎがこの世界に広がったなら、地上は天国になっているだろうということだ。俺の拳を受け止めたあの技は、必殺技なんかではなく、神と人をひとつにする技と言えるのかもしれない。
一方、男は何ごともなかったかのように、気持ちよさそうに湯に身をゆだねていた。
「時間はたっぷりある。ここでの時間の流れはゆっくりなんだ。のぼせないうちに適当に上がれよ」
そう言って、男は再び目を閉じた。
俺は飛行機の中で、あの男から受け取ったはがきがパスポートに挟まっているのに気が付いた。何気なく手に取ってみる。
――貴殿の挑戦状を拝読した。日本で貴殿の拳を受け止めよう――
俺は胸がすく思いで、目を閉じて天を仰いでいた。俺は自分の中で、何かが芽生えようとしていることを感じていた。
あの男はもはや求道者ではなく、歴然とした先駆者なのだ。
闘争の世界を終わりに導くための先導者・・・。
高みから見下ろすのではなく、地に降りて、闘いの連鎖を断ち切る男。修羅場を神の国に引き上げるために天命を与えられた男――。
俺は気がついていた。勝利よりも何よりも、この男が目標だったということに・・・。
(トム、俺は決めたよ。この日本人についていくと。そして世界を変えてみせる。この男とならできるような気がするんだ。真の格闘家とならば・・・!)
決意を固めたそのとき、男が別れ際に残した言葉が思い出された。
『この肉体が朽ち果てるまで、愛を体現しつづけるのみ。この腕が奮う限り、指一本にでも、力がこもる限りな』