第二部

 

 

彼女にくびったけ 

 

 ~SFⅢ エンディングより~

 

 

 

  

 

 クンフー教室が休みの昼下がり、さくらがうちへ遊びにやってきた。

 

 

「うわ~っ、素敵なおうちですね。・・・春麗さん、シアワセですね!」

 

 

 さくらは目を大きく見開いて周囲を見渡している。

 

 

「あのリュウさんが春麗さんと暮らしているんですよね・・・すごいなぁ・・・。あれ、リュウさんのチャンピオンベルトとかトロフィーとかはどこに飾ってあるんですか」

 

 

「ああ、あれね。本人が興味ないの。捨ててもいいなんて言うから、わたしが保管しているのよ」

 

「へぇ・・・リュウさんらしいな。うちはいちばん目立つところにズラッと並べてますけど」

 

 

「普通はそうよね」

 

 

 リュウが優勝の証として持ち帰ってきたものはいつもぞんざいに置いてあるので目立つところに飾ってみたら、翌日にはゴミ箱に放り込まれていた、なんてことはざらだった。リュウの欲のなさは結婚しても昔とちっとも変わらない。いや、自分の求める道に対して誰よりも貪欲なのがリュウだった。

 

 

「・・・今日はリュウさんいらっしゃらないんですか」

 

 

「普段は家にいないのよ。朝から遅くまでトレーニングや稽古に明け暮れているわ」

 

 

「そうなんですか・・・。うちも、最近特に遅くて・・・」

 

 

 さくらの表情が曇りがちになった。さくらの夫・火引ダン。彼は格闘家であるが、お調子者というイメージが離れない。しかしさくらにはよき相談相手だったようだ。彼らふたりの間には、次第に信頼関係から愛を育んでいたのだ。わたしとリュウとの関係と同じといってもよいだろう。

 

 

「火引さんと、何かあったの?」

 

 

「ケンカした、とかじゃないんです。ただ、うちにいる時間がめっきり少なくなっちゃって・・・。今までは飛んで帰ってきたのに、このごろは家に帰りたくないのかな・・・なんて」

 

 

 さくらと火引との結婚は周りが目を覆うほどアツアツだった。あれほど素直に愛を表現できるこのふたりをうらやましく思ったほどだ。リュウの話によると、トレーニング先でも火引は常に携帯を離さずメールチェックに余念がなかったという。どうやらそんな火引とさくらとの関係に変化があったようだ。

 

 

「彼の態度はどうなの?」

 

 

「普通です。いえ、わたしにはとても優しいんですけど、急に静かになっちゃって。ときどき難しそうな顔で考えごとをしたりしていて・・・。もしかしたら悩んでいるかも・・・」

 

 

 お調子者・ダンの様子が違うらしい。さくらはこの本題を抱えてここに来たのだ。

 

 

 聞いている限りでは、普段のリュウと同じような生活態度になっているようだ。わたしにとっては大したことがないように感じられても、さくらにとっては一大事のようだ。察するに、甘い新婚生活から脱却したのではないか。さくらのうつむいた横顔を見ていると、自分を責めているように映る。「何もかも」知り尽くしているはずの夫の本心だけはわからないのだ。そのもどかしさと不安はわたしもずっと抱いてきた。ふと、わたしの胸に、かつて風のようにやってきては去ってゆくリュウの姿が浮かんだ。

 

 

(・・・わたしはいつ来るかわからないあの人を、何年も待ち続けてきたのよ。それが今では待っていれば必ず帰ってくる。それだけでも夢のようよ・・・)

 

 

「彼、毎日ちゃんと家に帰ってくるんでしょ」

 

 

「はい」

 

 

「なら心配いらないわ」

 

 

「春麗さんは心配じゃないんですか?リュウさんが毎日夜遅くまで帰らなくっても」

 

 

「ええ」

 

 

「春麗さんみたいに、どうしたらなれるかな・・・」

 

 

「『心配』するのじゃなくて、『心配り』してみたらどうかしら。きっと楽になるわよ」

 

 

「なるほどな・・・さすがは春麗さんですね。なんというか・・・リュウさんを信頼しきっているってカンジです。あたしはまだまだ、弱いなぁ・・・」

 

 

「ふふっ。あなた、火引さんのことが大好きでたまらないのね」

 

 

 さくらの悩みが、むしろかわいらしく思えてくる。本人に言うと怒られてしまいそうだが。

 

 

 さくらと火引は互いに知らぬことなどないほどに、時間や考え、空間を共有してきたのだろう。ひるがえって自分たちのことを考えてみると、とても「何もかも」知り尽くす関係ではない。ことに生来寡黙なリュウには、言葉では表現しきれない雰囲気が感じられた。

 

 

 世界中を自分の足で歩き、修羅場をくぐりぬけてきたリュウには、黙するが故ににじみ出る野生の風格があった。遠い存在でしかなかったリュウと奇跡的な結婚を果たしたとはいえ、リュウのすべてを掌握できたわけではない。どんなに近くにいても、リュウという人間そのものの奥行きはどこまで深いかは計り知れない。ただ、どこまでも深くて遠いリュウに寄り添うことを許されたのは、唯一このわたしだけなのだという誇りは誰にも譲れなかった。

 

 

「ねえ春麗さん、つかぬことをうかがいますけど、その・・・ベッドは一緒なんですか、それとも別々なんですか?」

 

 

 さくらが身を乗り出して聞いてきた。

 

 

「え・・・。そんなことが、どうしたの?」

 

 

「実は・・・うちはずっと一緒だったんですけど、昨日、『寝床は別々にしよう』って言われちゃって。彼の考えがわからないんです」

 

 

 これは相当ショックの様子だ。女の考えとしては惚れた男と朝まで一緒のベッドで過ごしたいと思うのは当たり前のこと。さくらの気持ちはよくわかる。

 

 

「うちは、最初から別々よ」

 

 

「そうなんですか。・・・彼、急に離れていっちゃったみたいで・・・わたしのせいなのかな」

 

 

「そんなに自分を責めちゃダメよ。あなたが悪いなんて誰も思わないわ。火引さんだってあなたのことを大切に思っているからこそ、がんばっているんだと思うわよ」

 

 

 さくらが今、ひとりの大人の女性として胸のうちを吐露している。女とは、たったひとりの男を愛するだけで、たちまち変身してしまうものだ。リュウの追っかけだった元気印の女子高生が、今や火引の人妻。身も心も、火引のものなのだ。むしろそれがさくらにとっては幸せなのに違いない。

 

 

「でも、やっぱり心配で。わたし、ホントのこと聞くのが怖いんです。だから・・・」

 

 

「ここへ来たんでしょ?分かってるわ。リュウに聞いてみてあげる。火引さんがどう考えているかを」

 

 

「ありがとうございます!わたし、やっぱり春麗さんに話してみてよかった・・・」

 


 思えばわたしとリュウの結婚生活も、さくらの目には不思議な関係に映るのかもしれない。

 

 

 結婚してすぐにリュウから言われたことは、甘い愛の言葉なんかではなく、「できるだけひとりの時間がほしい」という言葉だった。四六時中一緒にいられると思っていたわたしにとってはいささか淋しさもあったが、リュウはわたしのことが何より大切に思っているからこそ、わがままを聞いて欲しいと言ったのだった。当然、ベッドも別々。もしもわたしがさくらのように素直に甘えることができたなら・・・いや、それでもリュウは火引のように妻の甘えに対してすべて応えはしなかっただろう。

 

 

 それを百も承知の上でリュウと結婚したのだ。自分のわがままを通すことでリュウの前途を阻むことは許されないということはわかっていたつもりだった。

 

 

「ねえ、さくらちゃん、火引さんはあなたを愛する気持ちに変わりはないはずよ。彼を信じてあげて」

 

 

「そう・・・ですよね。ははっ、やっぱり春麗さんには敵わないや」

 

 

 やっと、さくらに笑顔が戻ったのだった。

 

 

 

 さくらが帰ってからすぐ、電話が鳴った。リュウからだった。

 

 

「今日の夕方、こっちに出てこないか?トレーニングが終わってから、食事に行こう」

 

 

 思いがけない誘いの電話だった。受話器を置くと、心臓が高鳴っていることに気づいた。

 

 

(あたしったら、今でもリュウに恋してる・・・)

 

 

 ときめきは隠せない。苦笑しつつも早速デートのためにめかしこんで家を出た。

 

 

 リュウの行きつけの店は宝寿司。寿司職人の梅さんの握るお寿司はわたしも大ファンなのである。梅さんを交えて会話することも楽しみの一つだった。

 

 

「今日ね、さくらちゃんがうちに来たの。彼女、いろいろ悩んでいたわ」

 

 

 さくらとの一連の話をリュウに話して聞かせた。

 

 

「なるほど。奴はぞっこんに惚れこんじまったようだな」

 

 

「そうなの。さくらちゃん、火引さんに夢中なのよ」

 

 

「いや、そうじゃありませんぜ、奥さん。惚れこんでるのはダンナの方でさ」

 

 

 梅さんがトロを握りながら言った。

 

 

「え? 火引さんがさくらちゃんに惚れこんでるの?」

 

 

「そうさ」

 

 

 リュウは猪口を片手に、ニヤリと笑った。

 

 

「だったら、どうしてさくらちゃんを遠ざけちゃうのよ」

 

 

「わからないか?」

 

 

「さくらちゃんはさみしいのよ。だったらもっと一緒にいてあげてもいいんじゃない?」

 

 

 この言葉の裏には、リュウに対するわたしの日ごろの思いが込められていた。

 

 

「奥さん、男ってやつぁ、惚れた女のためならどんな辛いこともやり遂げるものなんですぜ。そのダンナは仕事に打ち込むことでかわいい恋女房に応えようとしてるわけでさあ」

 

 

「でも、どうして別々に寝ようだなんて・・・」

 

 

「さくらがダンに火をつけたのさ」

 

 

「え?」

 

 

「あいつ、今度のトーナメント戦に出ると言っていた。その様子じゃ、相当本気のようだな」

 

 

「あっしも空手家の端くれ。かみさん(よしこ)にはきつく言ってやったもんでさ。『勝負師たるもの、寝床は別々にしなきゃならねえ。よしこ、さみしがるんじゃあねえぜ』って」

 

 

「梅さん、ずいぶんと男前なのね」

 

 

「惚れた女房ならなおさら別々に寝たほうがいい。そうでなきゃ、うれしすぎて自分を見失ってしまうからな」

 

 

「リュウのダンナの言うとおりですぜ。男は女で磨かれもすりゃあ、溺れもする。女たあ、コワイ生き物なんですぜ、へへっ」

 

 

(それじゃあ、リュウがわたしと距離を置いたのは、わたしに溺れることを怖れていたからなの・・・?)

 

 

 リュウと梅さんはうなずき合っている。リュウがベッドを別々にしたわけは、そのためだったのだ。男の人の考えって、女の考えとはずいぶんかけ離れているようだ。同時に、リュウの熱い胸のうちを垣間見たようで、急に胸が切なくなった。リュウの横顔をじっと見つめると、静かに猪口をすすっているだけだった。

 

 

「男たあ、背中で愛を語るものなんですぜ。なあ、ダンナ!」

 

 

「ああ、そうだ!」

 

 

 リュウと梅さんの間には、女には分かち合えない何かを共有し、共感しあって喜んでいるようだ。

 

 

「あなたたち、そんなに気が合うなら一緒に暮らせばうまくいくんじゃない?」

 

 

「ちょっと待ってくだせえ!いくら相手がリュウのダンナだからといっても、あっしは男同士すね毛が擦れ合うのはいちばんキライなんでさあ!」

 

 

 梅さんがあまりにもむきになったので、わたしとリュウはおなかの底から笑いあったのだった。

 

 


 店を出たわたしたちは、街を一望できる人通りの少ない高台を歩いていた。

 

 

「ねえ、どうして急にわたしを誘ってくれたの?」

 

 

「実はな、今日会長に言われたんだ。『女房をほったらかしにしてちゃあいかんぞ』ってな」

 

 

「なるほどね、会長さんのお計らいだったってわけね」

 

 

「わかっているんだ。もっと早く帰らないといけないってことは。でもな、家で春麗が待っててくれると思うともっとがんばろうと思うんだ。おまえにもさみしい思いをさせてしまったな」

 

 

「さみしいだなんて思ったことないわ。だって風来坊のあなたを何年待っていたと思うの?」

 

 

「それを言われちゃ頭が上がらないよ」

 

 

 わたしたちは笑いあった。むしろ、リュウの本心を知ることができて、心からうれしく思った。

 

「思う存分、がんばってくれたらいいわ。だって、真の格闘家になるためにわたしと結婚したんでしょ」

 

 

「そう言われると辛いな・・・。だがおまえに惚れ直したよ。さすがは俺の最高の女房だ」

 

 

「・・・」

 

 

 リュウの言葉に感激して、しばらく立ち止まった。そんなわたしに構わず、リュウは歩き続ける。

 

 

(最高の女房、か・・・)

 

 

 数メートル前を歩くリュウの背中が照れているのがわかる。

 

 

 長い年月をかけてやっとリュウはわたしと生きる道を選んだのだ。わたしは知っている。リュウの夢はわたしなしでは叶えられないということを。わたしは思い切り走ってリュウの腕に抱きついた。

 

 

「あなたには絶~っ対、真の格闘家になってもらうわよ~。これはあなただけの問題じゃありませんからね!」

 

 

「ははっ、春麗がいれば百人力さ。負ける気がしないんだ。本当だぜ」

 

 

 時折見せるリュウの余裕はどこから来るのか、今更になって痛いほど感じさせられたのだった。

 

 

「なあ、春麗。今夜はずっとそばにいてくれるか」

 

 

 耳元にそっとささやくリュウ。孤高な男には人一倍、愛を必要とするものなのだということも、わたしは知っている。

 

 

「もちろんよ。わたしとあなたはふたりで一つなんだもの」

 

 

――そして・・・わたしたちは一つのベッドで朝を迎えたのだった。