第三部
真の格闘家への道はここにあり
~SFⅢ エンディングより~
山中で出会った奇妙なじいさんと再会し、自分を確かめたのは約一年前。あのときの俺は、じいさんの片手程度の実力しか出せなかった。この世界には、まだまだ未知の世界に満ちあふれている。形ある世界はほんの一面にすぎないことを、あのじいさんによって思い知らされることになった。
あれから何度かじいさんは俺の前に忽然と現れては、息一つ乱すことなく片手であしらうだけの神業を見せつけた。じいさんは俺の心中までも読み取る能力があった。それゆえ必殺技も無用の長物となり果てる。つまり、通常の肉体レベルの戦いとなれば、すべてお見通しというわけだ。じいさんはあらゆる意味で至極やりにくい相手だった。
いつ、どんなところでもあのじいさんが俺を見ていると思うと、もはやこれまでの肉体レベルの修行では事足りないことを思い知る。自我の世界から離れると、意識の世界へと導かれてゆくことは必然の理なのかもしれない。
ときおり、ひらめきによって自分の疑問への答えがわかることがある。そんなとき、神出鬼没のじいさんから、俺をあの山へと誘いのメッセージが発せられるのだった。ときには夢で、時には幻影で、時には声で。
じいさんの幻を無視したところで、煙のようにしつこく俺にまとわりついてくる。その心地悪さに俺は不本意ながらも山中へと向かうのだった。
肉体レベルでは通用しない相手となれば、尋常の勝負ではもはやない。拳を交わすのではなく、意識を交わすことが俺とじいさんとの手法だった。それはまるで禅の公案のような展開ではじまるのだった。
「では、かねてからのおぬしの問いからたずねようかの」
じいさんは俺が山へ入ってしばらくしてから、脳内に直接声を響かせてきた。他人から見ると、俺は独り言を言いながら歩く変人だと思うだろう。幸い、この山に近づく者は誰もいなかった。
「何のために強くなるのか?」
声に出さずともじいさんは俺の思考を読み取るのだろうが、俺はあえて言葉を発した。
「強さと弱さは対立しているのではなく、補完しあう関係にある。強さは弱さ、弱さは強さ。その関係は二元性であり、元は一つ。このことを知るために強くなるんだ」
「では、勝負の先に何が見えるのか」
「勝負の先に見えるのは、対立を超えた境地・・・。それは一体感を会得すること。すなわち分離を統合すること。一なるものを見ることなり」
「一なるものがあるならば、なぜこの世に満ちあふれる万象万物があるのじゃ?」
「万象万物すべてを形作る本質は生命。生命なくして万物は存在できない。生命すなわち原因、万物は結果。原因は空であり、結果は色となる。これすなわち色即是空、空即是色。形あるものの本質が形なき生命であり、形なき生命が万象万物を形作る。すべては一なる生命。一なるものが万象万物の本質なり」
「うむ。では、生命とはなんじゃ?」
「生命とは宇宙に遍満する不可視のエネルギーであり、無形にして無双。唯一無二の生命こそが万物の本質。万物の本質すなわち宇宙にあまねく存在する愛。すなわち愛なくして生命なし。生命なくしてすべては存在しえないということだ」
「では愛とはなんじゃ?」
「愛とは力。生命エネルギーを動かす力こそ愛なり。すなわち愛とはすべてに宿る不変なる生命。すべてを形成する万物の大元。すなわち愛とは力であり神である」
「では神とはなんじゃ?」
「神とは原因であり結果。すなわち神とは普遍なる宇宙の法則そのもの。神は光であり真我であり愛であり調和である」
「では調和の対極である不調和とは?」
「宇宙の法則に反することである。不調和は破壊的行為であり、争い分離し、自我そのものである」
「ならば自我とは?」
「個人的力、個人的知恵、個人的生命。すなわち、迷い、怒り、恐れ、不安、嫉妬、羨望・・・自我とは無知ゆえに、愛を知らず生命を知らず法則を知らずして苦しみを生み続ける・・・」
「ではなぜ無知が存在するのかのう?」
「自分が誰かを知らぬが故に、無知が存在する。勝負も強さを求めることも外に本質を求める行為・・・。無知を克服することこそ求道。無知も英知の中に内包されていることを知ることこそ理・・・。自分が誰かを知ることこそ英知なり」
「では聞く。おぬしは誰か」
「意識こそ実相であり、肉体は仮相である。すなわち意識は原因であり実相であり真我、すなわち神である。肉体は結果であり仮相であり偽我。意識こそ万物に宿る本質。すなわち我は意識なり。我、神なり」
「ほう・・・内から出た答えは真理であり久遠じゃ。では、最後に聞こう。勝負を超えた境地とは?」
「勝負を超えた境地・・・。それは自己追究の道の果て。如何なる諸芸もその道に通じる。その道とは真我顕現へと至る道。勝負は分離。すなわち勝負とは自他一体となり、到達すべきは真我到達の境地なり」
「にょっほ! おぬしもそろそろわしと互角の相手にレベルアップしてもよかろう。そのためには肉体を高分子化させる必要がある。肉体を気化させ霊化させるのじゃ。つまりは生命エネルギーを高める修行が必要。そのためにはこれからはひとりではなくふたりで修行せねばならんのじゃ。やってみるか?」
いつもの場所にたどり着いたときには、じいさんは大岩を浮かせて遊んでいた。
「断っておくが、わしとでは修行できんのじゃ。がっかりじゃろうが・・・?」
「・・・いや、別に・・・」
「にょほほ・・・強がらんでもよいぞ? ひょっひょっひょ」
じいさんの変な笑いにかまわず、俺は本題を切りだした。
「ならば俺の修行相手は・・・?」
「おなごじゃ」
「おなご?」
「さよう。修行相手は男子(おのこ)には女子(おなご)、女子には男子でなければならんのじゃ。おぬしは幸いなことに細君がおるのお」
女の修行相手ならば確かに春麗がいる。しかし今となっては、春麗は対戦相手でもライバルでもなく、守りたい存在。もはや春麗とは肉体レベルでの真剣勝負はできなくなってしまっていたのだった。
「おぬしもだいぶ徳が備わってきたのう・・・」
あごをさすりながら、じいさんはつぶやいた。まだ、俺にはじいさんの意図が何なのかを知らなかった。
「人間として生まれてきたからには、不完全であるのが宿命じゃ・・・。人はもともと雌雄同体であったのじゃが、人間の段階では雌雄に分かれて地の球に生まれ落ちるのが定め。人は完全でありながら、人間という仮相に固体化しておる間は不完全なのじゃ。わかるかの?」
俺は、じいさんのどこを見ているのかわからない赤い目をみつめてうなずいた。
「人は男と女の二つに分かれた。すなわち、陽と陰、原子と電子、精子と卵子、放出と吸引・・この相反する作用を同化することが完全ということなのじゃ。本来、人はどこの宇宙でも適応出来る最高の表現体なのじゃ」
俺はうなずいた。
「陰陽のエネルギーの交換法を体得するのじゃ・・・すなわち真なる『まぐわい』じゃ」
「まぐわい・・・!?」
「さよう。人間界では単なる肉体の快楽じゃとか、肉欲とかいうて猥雑な情報に洗脳されとるが、あれは人類の最たる不幸じゃ。人の最強なるエネルギーは性エネルギーなのじゃからのう。生命を生み出す性エネルギーは最も強力かつ膨大なのじゃ。その性エネルギーの扱い方を知らぬが故に、人類は悲劇を繰り返しておるのじゃ」
じいさんは赤い目をギロリと見開いてから、ひょひょひょと笑った。
「次なる修行はひたすら二人で愛を交わし合い、陰陽の氣を交換しあい、両者の魂の融合と霊性を高め合うのが目的。喜びの中に解け合い、愛を深め合い、万物一切に愛を放射することじゃ。このレベルに至れば究極じゃ。わしも遠い昔、仙女とひたすら愛を交わし合ったものじゃった・・・あれはまさに恍惚の境地・・・至福の修行じゃった・・・」
じいさんは遠い目をしてひとり懐かしんでいた。
「断っておくが、この真なる『まぐわい』は、男女とも小周天を開通しておかねばならんのじゃぞ。つまり、奇経八脈すべての氣脈を通しておかねばならん。これが通常は難関なのじゃが、おぬしはラッキーじゃのう! すでに細君も小周天が開いておるわい」
別に驚くことではない。春麗は氣功の達人なのだから。
「ならば、話は早い。おぬしに奥義を授けよう」
俺は意外な話の展開に、固唾を呑んだ。
「ズバリ、『接して漏らさず』じゃ」
「接して、漏らさず・・・!?」
「さよう。そんなことできるか! とでも言いたげじゃのう。じゃが、数千年前の古代からそれは秘伝中の秘技として伝えられてきたのじゃ。・・・むかし黄帝という仙人がいた。800歳まで生きたと言われておる・・・黄帝、愛を交わす際にこれを思いのままに制御せり。・・・而して昇仙す。普通の人々、十分に制御できぬまま愛を交わし合う。それゆえかくも寿命が短いのである。男、もし美しき女を愛するや、頻繁に射精を繰り替えさば、その身は傷つき、百病を被るであろう。それまさに、死を求むるに等しい・・・」
俺はじいさんの話を聞いているうちに、仙人とは禁欲と無縁であるどころか、性エネルギーの運用法の名人だったことを知ったのだった。不老不死は人類の永遠の夢。その秘訣がここに開示されたというわけだ。
「ただし、禁欲は精氣を滞らせるゆえ、死精となって命取りになるのじゃぞ。禁欲を余儀なくされる修行者は抑圧され、陰陽の氣を循環させることなく老化を早め、道半ばにしてこの世を去るのじゃ・・・。なんと悲しきことよのう・・」
じいさんの話によると、男は射精するたびに数億の生命を漏出することになり、生涯失う生命の数は天文学的数字にも上る。失った精子を再び生産するためには、おびただしい生命エネルギーが必要であるため、人体の生命力は常に精子の補充のためにまわされ、本来使われるべき生命エネルギーが枯渇し寿命を縮めるという。これは最高の境地へ到達せんとする修行者にとって、乗り越えなければならない大問題なのだそうだ。その問題を解決すべく古代の先達が数千年にわたり切磋琢磨して編み出した秘儀がこの奥義なのだという。
「まずはおぬしが射精せずもちこたえられるよう、愛を交わし合うことからはじめるのじゃ。ひょひょ!うれしき修行じゃろう。しかし、それで満足してはいかんぞ。男女の交合をせずとも抱き合うだけで為せる性エネルギー交換術こそが奥義中の奥義。いちいち交合せずとも接するだけで両者ともに昇仙できれば究極じゃ。これぞ真なる『接して漏らさず』なのじゃ。これでおぬしらは完全となれるわけじゃ。」
要は、男女が触れあうだけで常に性エネルギーの循環が行われるため、いつまでも若さを保つことができ、老いることはないということらしい。
古代において男女の目と目を合わせることで目から発する氣の交換術が「目合ひ(まぐわい)」と言ったそうだ。古代の人類は誰もが現象の本質を見る目を持っていた。現代人は現象しか見なくなってしまい、すっかりその能力を忘れてしまった。人間は正しく見ることができないために、様々な苦しみを生み出しては迷い続けている・・・。以前の俺のように。
「おぬしが今生で昇仙できるかどうか・・・それは夫婦となるべくして結婚したかどうかにかかっておるぞ。夫婦とは本来は元々一つの雌雄同体同士。違う相手と結婚したなら昇仙は無理じゃ。これはおなごにしかわからんことじゃ。おなごは第一印象で、ジン!と胸に響いた相手がほんとうの結婚相手だとわかるものなのじゃ。胸にジン!と響いた相手が前世で夫婦だったのじゃ。その場合は円満な夫婦となる。細君に聞いてみるが良い。おぬしとはじめて会ったとき、ジン!と胸に響いたかどうかを・・・。響かねば、今生での究極への到達はあきらめることじゃ・・・再び転生して輪廻を繰り返さねばならん・・・。しかし、このことを聞くのは、勇気のいることよのう・・・」
「・・・」
「修行の道のりは長い・・・。永遠に修行の連続じゃ・・・。無限に到達するまでが久遠なのじゃ・・・。じゃが、せめて人間を卒業したいものじゃのう・・・」
しみじみとじいさんは虚空を見上げて言った。俺はこのじいさんもまた、さらに高みを目指してひたすら修行していることを知った。
「おぬしがわしの両手を思いっきり使える相手となるまでに、ま~あと15年、早くて10年ちゅうとこじゃのう。せいぜい精進することじゃな。にょっほっほ」
春麗との関係は今から思えば不思議な縁だ。そもそも俺より強い相手に会う旅に出たのがはじまりだった。世界中の強者たちの中に春麗がいた。俺は春麗と出会うために武者修行の旅に出たのだろうか。それを合縁奇縁というのだろう。俺には前世で夫婦だったかどうかはわからないが・・・。しかし、いったい俺は仙人になろうとしているのだろうか・・・。
帰宅し、春麗といつものように静かな夜をくつろいでいた。
「どうだった? 仙人さんから何か教えてもらったの?」
「ん?・・・ああ・・・」
じいさんとの一連のやりとりを思い出して、俺は一瞬動揺してしまった。あのじいさんの言うとおりに俺は進むべきなのか・・・。少なくともじいさんの話に春麗が関わっている以上、春麗には正直に話すことにした。
「接して、漏らさず・・・」
春麗はつぶやいた。沈黙が空間を満たしていた。
「・・・だめ」
「・・・?」
俺は春麗の表情をうかがった。
「それだけは、だめ」
頑なに拒んでいる春麗の考えが俺にはわからなかった。
「あなたのためだって、わかってる。でも・・・」
「でも?」
春麗は俺の方に向き直った。
「あなたの赤ちゃんを産みたいの・・・だから『接して漏らさず』はだめなの」
俺はとっさに春麗を抱きしめ、妻の思いに気づかなかった自分の浅はかさを恥じた。心の底から春麗が愛しかった。
「春麗・・・すまなかった・・・おまえの気持ちも知らないで・・・」
「ううん。あなたが謝ることなんてないのよ。・・・仙人さんの言った秘伝は知ってるわ。タオの奥義『相修法』のことよ。精功夫と卵功夫というお互いそれぞれのレッスンが必要なのよ。でも、今は・・・」
「赤ちゃんを産んでくれることほどうれしいことはないよ。じいさんの言うことなんて、それに比べたら、どうでもいいことさ」
本当にそう思った。今の俺たちはこれからなんだ。これから家族を築いていく。俺たちは今生では生命の誕生をまだ体験していない。俺は新たな生命を春麗の身体に宿すことができるのだ。これほどすごい力はないだろう!? 俺は春麗に、今なら聞けると思った。あのことを・・・。
「なあ、春麗。俺とはじめて会ったとき、何か感じた?」
春麗は丸い目で俺を見たあと、照れくさそうに笑った。
「聞きたい?」
「聞きたい」
俺はうなずいて真剣に春麗の目を見た。春麗は肩をすくめて、俺の目を見て言った。
「この人だ!!・・・って、雷が落ちたみたいだった・・・」
俺はしばらく呆然としてしまっていた。春麗とは、インターポールの麻薬捜査官の肩書を持つ女格闘家としての出会いだった。シャドルー絡みの緊迫した状況下で出会ったはずだったが、まさか出会った瞬間にそんな印象を抱いていたとは・・・。
「本当に?」
「ホントよ・・・。胸に響いたもの。瞬間的にこの人だ!って。」
「すごいぞ、春麗!!」
俺は春麗をかき抱いた。俺は人生の真の勝利者だ! 魂が歓喜に震えている。
「俺たちは、出会うべくして出会ったってわけさ」
「やっぱり・・・」
春麗は溜飲が下りたように、納得していた。俺は春麗と向き合って言った。
「ずいぶん待たせてしまったな・・・。あのときの俺じゃあ、どうしようもないよな」
「わたしだってまさかと思ったわ。風来坊のあなたと結婚できるなんて思ってもみなかったもの。でも、どこかで奇跡を夢見てた。あなたとだったら、子どもは3人は欲しいな、なんて」
春麗は笑った。
「女って、計算高い生き物よね。でも不思議なの。なんだか遺伝子に動かされているんじゃないかって思えるのよ。中国で子どもを3人も産めるわけがないんだもの。でも今、あなたと結婚して日本にいるわ」
俺は春麗に、中国では決して叶えられない夢を実現させてやりたい思いに駆られた。
「日本でなら子どもを3人でも4人でも5人でも産んでいいんだぞ、春麗! 遺伝子を超えていこう。俺たちはなんでもできるんだ」
「本当に? ・・・夢だったのよ・・・ホントに・・・うれしい・・・!」
春麗を胸に抱きしめたとき、ひらめきとともに確信を得た。それは山籠りして俗世から離れて仙人になろうとすることではなく、家庭を持ち、通常人として生きて地上を天国にする生き方こそ、本物なのではないかということだった。
もともと一体だった俺と春麗が今生一緒になったのは、人間として最高の境地、すなわち地上天国を創造するためだったのだ。その思いは肚の奥に落とし込んで深く得心したのだった。
あのじいさんは、おそらく知っていたのだろう。春麗が俺の出会うべき相手だったということを。驚くべきことは、春麗と普通に生きながらふたりで究極の境地へ至る道が開けたということだ。なんという人生の妙味、しくみだろう!
――真の格闘家への道は、すぐ目の前にある。